NS # 310
赤絨毯
RED CARPET

琉球大学(沖縄)での展示
installation at Ryukyu University (OKINAWA), JAPAN
1015 red colored papers on the connecting passageway
1015枚の擦り出しされた赤い紙
35×1.6m  23 June, 2006
赤絨毯プロジェクト/ Red Carpet project
沖縄:2006年6月23日/ June 23, 2006
大阪:2006年12月1日から24日/ Dec 1 to 24, 2006 個展「赤絨毯」 海岸通ギャラリー・CASO


沖縄の南端、摩文仁の丘には、戦没者23万人の名前が刻まれた「平和の礎」が建つ。
作品「赤い絨毯」は2006年4月から10月にかけて、その死者の名前を、一人づつ赤鉛筆で擦り出し(フロッタージュ)した数千枚の赤い紙から構成するインスタレーションです。
アメリカでは、遺族が慰霊碑に刻まれた名前を、擦り出し(フロッタージュ)することはよく行なわれている行為です。
私自身は死者との対話だと捉えて行いました。

Red Carpet project 2006
There is "The Cornerstone of Peace" in Okinawa, Japan. This monument was inscribed with the names of each and every person who died in the battle of Okinawa.
I am doing frottage, taking a red pencile and making a "rubbing" over a textured surface to white paper, at "The Cornerstone of Peace" from this April.
These red colored papers are put on a exhibition floor as 'RED CARPET'.
赤絨毯プロジェクト/ Red Carpet project
NS # 313
赤絨毯
RED CARPET


ギャラリーCASO(大阪)での展示
installation at Gallery CASO OSAKA, JAPAN
1550 red colored papers on the gallery floor
1550枚の擦り出しされた赤い紙
10×12m  1-24 Dec, 2006
「戦時中、米国は、京都を特別に攻撃対象から外してくれた」
子供の頃、祖母から聞いた一言である。京都生まれ、京都育ちの私は、それを聞いてからというもの、京都の立派な歴史的建造物や文化財を見る際、そこに戦争との関連を感じるようになった。その意識は、京都とは逆の立場であった、つまり最も激しく攻撃対象となった沖縄を感じ取りたいという気持ちに変わっていった。
 戦後60年以上経過した沖縄でも、戦争の記憶は薄れていく一方である。しかし間違いなく今も、その痕跡は至る所に見出すことが出来る。沖縄の南端、摩文仁の丘に建つ、戦没者23万人の名前が刻まれた「平和の礎」もその一つである。2006年4月から10月にかけて、時間の許す限り、その戦没者の名前を赤鉛筆でフロッタージュし続け、約2万人の名前を写し取ることが出来た。石碑に刻まれた死者の名前をフロッタージュする行為は、米国では「死者との接し方」として遺族によって一般的に行なわれており、それほど特別な行為ではない。
 作品「赤絨毯」は、その写し取った赤い紙を床に敷き詰め、「赤絨毯」に見立てるものである。「赤絨毯」とは、国会議事堂の廊下の床に敷かれていたり、ハリウッドスター達が闊歩する"赤い絨毯"の事であり、言うまでも無く世界共通の「権威の象徴」である。私の敷き詰める「赤絨毯」の上を、誰が歩くことができるのだろう?しかし、無意識の内に我々は、その上を歩いているのではないかと感じる。


沖縄にて 2006年10月9日 岡本光博



以下、喜屋武盛也氏(沖縄県立芸術大学)による、
『「慰霊の日」に琉大での展示を「実見して」考えたこと』がベースになったテキストです。
これは、あくまでも「私信」として書かれ、かつ「未定稿」です。
(2007年2月2日掲載)


『「赤絨毯」の理解のために』

作品の手法として、赤いシートに写真のプリントではなくて、手作業のフロッタージュ を採用したことには、大いに意味がある。岡本氏の過去の作品で機械 的複製が決して忌避されず、多用とはいえないまでも、普通に用いられているところ からすれば、作家の意図的選択である。

感性的な仕上がりからしたら、あれは赤絨毯に見えない。「見立て」ないといけない。 画像をパソコンで取り込んで絨毯風の加工をしたほうが、「赤絨毯」にふさわしく仕上げられただろうけれど、でも、それをしなかったのには、意味がある。

思うに、「死者との対話」というのは、この手作業の部分である。鉛筆を握り締め、一つ一つ「非機械的に」写し取っていくことで作られる、「作品のアウラ」で持って、碑のもつある種「絶対的な」アウラに報いたのである。

死者の銘に対峙して、この、手作業で報いたところに作品の核心があるはずであるが、web上での(複製技術的)紹介では、危うい均衡が、崩壊する。この肝心の手作業でつむぎだすアウラが、どうしても抜け落ちていく。
作品のアウラが抜け落ちたところで、碑のもつある種「絶対的な」アウラ−それは観念的にしか作用していないのだが−のみが顕在化する。そこでは、あの、鉛筆のストロークの痕跡は何も訴えかけることがない。





関連資料:
1.週刊金曜日2006年12月22日号「珈琲破壊048」
2.沖縄タイムス2007年1月23日朝刊、夕刊
3.週刊金曜日2007年2月9日号「論争」
4.京都芸術センターによる「明倫アート3月号」2007年2月20日発行(京都芸術センター)にて、滋賀県近美の山本淳夫さんによる展覧会レビュー。)






沖縄タイムス2007年1月23日朝刊